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2018-07-26

[特別読み物]それぞれの戦い ~熱血監督の十連覇と58歳の高校生~ 第2回

※飾磨工業高校監督 三輪光
Photo/近代柔道

文◎中 大輔

58歳の高校生

2014年の8月。タクシー運転手の上原裕二の姿は、またしても講道館8階の観客席にあった。昨年、母校の後輩の応援に訪れた講道館。目の前で圧倒的な強さを見せつけ、男子団体六連覇、女子団体三連覇を遂げた飾工。気になっていた。気になって仕方がなかった。

そしてまたしても、飾工は上原の目の前で連覇を続けた。下剋上を目論む横浜修悠館を鼻差でかわし、七連覇を達成したのだった。

「ギリギリだったな。危なかったな、兵庫。まぁでも終わってみれば七連覇か」

翌2015年8月。上原はやはり講道館にいた。七連覇時よりも戦力アップした飾工が、貫禄の八連覇を達成する瞬間を見届けた。

「強いなぁ、兵庫……」

飾工の圧勝劇を観ながら、上原は手首を返して虚空を掴み、引き寄せ、振り下ろした。三年間、観続けてきた飾工の連覇劇。柔道家として、体中の細胞を刺激され、生来の闘争心が疼いた。

(柔道、久しぶりにやるかな……)

孫のような歳の、五厘の戦士たちの躍動が、汗が、力強さが眩しかった。

飾工の八連覇を見届けた夏から、八か月後の新年度、2016年4月。上原は高校生になった。

立川市にある東京都立砂川高校の通信制に入学したのだ。上原はかつて延岡商業高校を半年で退学したものの、その後富島高校定時制を卒業している。高卒資格を持っている。にも関わらず、高校生になった理由は、

「あいつら、ぶん投げてやろうと思って」

高校の柔道部員になり、飾工と戦うためだった。飾工の活躍に触発され、久しぶりに町道場で体を動かしてみようか、というものではなかった。

上原は還暦を前に、飾工との対決を本気で考えたのだ。

「だって、飾工と戦うには、自分が高校生にならないと出来ないじゃないですか」

世の大半の男は、歳を重ねるごとに争いを好まなくなっていく。無論、幼い頃から大人しい性格の男性も多いが、たとえ、やんちゃだった男の子も、やがて受験戦争に晒され、社会の洗礼を浴び、家庭を持ち、角がみるみるとれて、丸くなっていく。それ自体、悪いことではない。求められる力や強さの種類が変わっていくからだ。社会生活において腕力は無用であり、知力と我慢強さこそが、世の中を生き抜いていく術になる。

しかし、そんな一見自然に見える“社会の摂理”を隠れ蓑にしていることを、男たちは密かに自覚している。

筋肉が落ち、腹が出てくる。階段ではなく、迷いなくエスカレーターを選ぶ。一人でひょいと持ち上げられたはずの家具が、もう上がらない。居酒屋で大学生と目が合っても逸らす。息子に背丈を抜かされた時に、もう取っ組み合いで敵わないことを知る。オスとして体力や腕力が劣っていくことを密かに嘆きながら、抗うことなく、“社会の摂理”を盾にして、理論武装していく。

いい歳して喧嘩なんかしない――。正しい。正しいが、一方でそれは言い訳だ。喧嘩しないのではなく、出来ないのだ。体力はもちろん、いざとなったら戦う度胸を失くしたのだ。雄として衰えたのだ。

本当に衰えていったのは、体力ではなく、胆力だということに気づかないか、気付いても認めようとしない。いぶし銀俳優のような枯れた魅力に憧れたり、訳知り顔で若い人間を懐柔しようとする。

上原は違う。口下手で愛想笑いも出来ない。世渡り上手という言葉とはおよそ対極にいる人間だ。不器用さゆえ、職を何度も変えた。それでも息子と娘を育て上げて自立させた。懸命に生きてきた。そして還暦を目前にしながら仕事を精力的にこなす一方で、高校生になった。上原は狡知ではなく、馬鹿が付くほどの正直さと勇気を持って生きてきたのだ。

上原は孫だとしてもおかしくない年齢の飾工の選手たちを「あの子たち」と呼ばない。「あいつら」と呼ぶ。年齢ではない。上原の中で柔道家は、子供であろうが大人であろうが、畳の上では対等なのだ。そして対等であるがゆえに、本気で、真正面から、飾工の選手たちと戦おうとしたのだ。

上原はタクシー運転手からトラック運転手に転身していた。仕事と高校生活、すなわち柔道部での活動を両立させるため、通信制を選んだ。

しかし、砂川高校には柔道部がなかった。上原は学校側に掛け合った。諸々の事情により、柔道部が発足することはなかった。上原が忸怩たる思いで過ごした2016年。飾工は九連覇を達成し、王座を防衛していた。

2017年4月。上原は東京都立青梅総合高校に入学し直した。高校の柔道部の部員になり、全国大会で飾工と戦う。その一念だった。

中央大学柔道部出身の六段、顧問の小池は二歳年上の生徒に胸打たれていた。還暦を目前にした年上の男性が高校生になることの意味を、小池は教師という立場からはもちろん、人生と先輩として尊く思った。そして、選手として全国大会に出場したいという上原の熱い意思と勇気に、同じ柔道家として敬服した。

晴れて高校生に、そして高校柔道部の部員となった上原。子供たちは自立し、妻と犬との“三人”暮らしだ。

「家で呑んでると、学校に行け! って。学校行ってると、いい歳して恥ずかしいからやめてくれ、って。まいっちゃうよ」

上原は笑う。

「でもね、チータも歌っとるじゃないですか」

上原は、水前寺清子の『いっぽんどっこの唄』の一小節を呟いた。

「人のやれないことをやれ、ってね」

それにしても、58歳で高校生になるというのは、普通は発想すらしないことだろう。

「じじばばで集まったら終わりですよ。若者と行動しなきゃ。ね、そうでしょ」

日中の仕事を終え、夕暮れ迫る校門をくぐる。21時に授業が終了し、その後が部活動の時間だ。しかし、22時には校門が閉まってしまう。

「着替えてストレッチをしたら終わりですよ」

上原は黙々と筋トレ、木や鉄柱にゴムを縛り付けて打ち込みを続け、相手を求めて出稽古を繰り返した。

「出稽古では東海大菅生、田無高校に世話になりました。40年前に富島高校の定時制にいた頃、部員不足は味わってますからね。あの頃だって、日向高校とか宮崎工業とか、全日制の学校へ出稽古に行きましたから。慣れっこですよ」

部員が上原一人のため、青梅総合高校としては団体戦に出場することはできない。上原は東京都代表チームに入った。出稽古に加え、代表チームの合同練習でも汗を流した。

日中トラックのハンドルを握り、夕方から授業を受け、週末には出稽古。夜勤明けで睡魔と戦いながら授業を受けることも多かった。空き時間を見つけての筋トレは欠かさなかった。58歳の上原は、仕事と高校生活と柔道のすべてに全力で取り組んだ。

「稽古の環境がないのは確かですよね。でもね、練習相手が不足しているとか、歳のことを言い訳にしちゃいけない。言い訳するなら出なきゃいい。やる以上は、気持ちなんですよ。力を込めてね。電柱相手だって、やり続ければ力になるんですよ。イメージの力ですよ。相手が目の前にいると思って、力込めて素早く動くんです。本当に相手がいると思ってやる稽古は濃いですから」

打倒・飾工。その一念が上原を動かしていた。全国高校定時制通信制大会の絶対的王者に、58歳の高校生が本気で挑もうとしていた。

史上最弱

※「ボスを本当の日本一の親父に僕たちがします」史上最弱のチームが十連覇に向けて変わった
Photo/近代柔道

前人未到の九連覇を果たした飾工。三輪は当然、十連覇を狙っていた。2008年の初優勝から10年目。飾工柔道部の部史にとってはもちろん、十連覇達成は、三輪自身にとっても大きな区切りとなる。

十年間、いや相生産業高校定時制、明石南高校時代から数えれば31年もの間、三輪は突っ走ってきた。子供たちを抱きしめ、雷を落とし、時には一晩中家出した子を探した。三輪は全力で子供たちに向き合ってきた。

疲れていた。子供たちのことも、教師という仕事も、もちろん柔道も、三輪は生涯愛し続けていく自信がある。しかし、ほぼ年中無休で31年間も走り続ければ、疲弊するのは当たり前だ。

公立高校であるにも関わらず、異動がなかったからこそ九連覇を演出することができた。しかし、今後いつ異動の命が下っても不思議はない。

柔道部監督を辞する時――。三輪は引き際を探していた。今後の人生もきっと柔道とは切っても切れない結びつきがあることはわかっていた。それでも、いつかは羽根を畳み、休まなければならない。子供たちを育て上げ、ワルガキたちを更生させていく前に、自分が倒れてしまったり、壊れてしまってはならない。十連覇は、あらゆる意味で三輪にとって格好の節目だった。

有終の美を飾りたい。三輪は強く望んだ。連覇が途切れれば引くに引けなくなる。悔いをこのして次の場所へ行くのは御免だ。

しかし、十連覇を目指すには大きすぎる壁があった。

「史上最弱のチームです」

三輪が苦笑いで呟いた。

二連覇から九連覇までの間、最低でも一人か二人は、前年に講道館の畳を経験しているメンバーがいた。全国大会の意味を知るメンバーが後輩たちを引っ張っていく流れがあった。

「てっぺんの景色を見たことがある人間がいる、というのは強いんですよ。てっぺんの景色がどれだけ素晴らしいものかを知っている。だからもう一度見たいという気持ちが強い。そしてそのためには、どれだけ追い込まなければいけないかを知っていますから」

経験者たちが「全国で勝つには、ここまで追い込まなきゃ勝てないぞ」という危機意識を持ち、先進的支柱となってチームを牽引してきた。しかし、十連覇を狙う2017年度のメンバーには、前年の講道館経験者が一人もいなかったのだ。

そして経験者がいないことに加え、特に抜きん出た実力者もいなかった。よりにもよって「史上最弱メンバー」で十連覇に挑むことになったのだ。

三輪の懸念は的中した。大会を二か月後に控えた6月の時点でもまだ、選手たちの士気が一向に上がってこなかったのだ。八連覇、九連覇時に比べ、戦力が落ちることは仕方がないこと。そこに関して、三輪には一切の怒りもなければ、言い訳もない。甲子園常連校にだって毎年波があり、毎年甲子園に出場できるとは限らないのだ。問題は精神面だった。

「必死さが伝わってこないんですよ。危機感が感じられない。甘いんですよ!」

選手たちはさぼることはなかった。ただ、淡々と稽古をこなすばかりだった。前進も後退もないルーティン。ボクシングにおいて、対戦相手を想定したシャドーボクシングと、黙々とコンビネーションを確認するだけのそれとは、疲労度も成果も段違いだという。この頃の選手たちは、相手を想定した真剣味溢れる濃い稽古ではなく、決められたルーティンをこなす、ただそれだけだった。

歯痒かった。実力で他校に劣ることは諦めがつく。しかし、気持ちで劣ることが許せなかった。

精神の充実がないと何が起こるか。日替わりで怪我が相次いだ。キャプテン、副キャプテンが故障で戦線を離脱した時、三輪は連覇が途切れることをはっきりと覚悟した。

停滞する柔道部に楔が打ち込まれたのは7月のことだった。父親と同じ教師を目指している三輪の長女・望(のぞみ)が、教育実習で飾工にやってきたのだ。

望はかつて飾工柔道部に属し、2012年度、2013年度の全国大会女子個人戦で連覇していた。父親が監督であるがゆえ、より厳しく育てられた。望は、三輪の言う「てっぺんの景色を見たことがある人間」だった。

臨時コーチとして柔道場に入った望は、選手たちを前に静かに言った。

「この状態で全国優勝? 十連覇? 笑えるわ。おまえら頭おかしいやろ?」

男勝り、父親譲りの歯に衣着せぬ物言い。この一言から風向きが変わった。故障中のキャプテン、副キャプテンは黙々と筋トレに打ち込んだ。他の選手も、自ら志願して毎日深夜まで稽古に明け暮れた。

誰かひとりでも心が折れれば勝てない――。危機感は緊張感を生み、緊張感が連帯感や団結力を生んでいった。

7月21~24日に開催された西日本新聞創刊140周年記念 平成29年度金鷲旗高校柔道大会。三回戦に勝ち進んだ飾工は、修徳学園高校(東京都)とぶつかった。

2014年には金鷲旗団体優勝、インターハイ団体準優勝。数々の著名な柔道家を輩出する超の付く強豪校だ。結果から言えば飾工は敗れた。しかし、修徳を相手に意地を見せての3人残し。2勝したのである。

金鷲旗が終わると、姫路には戻らず、その足で佐賀に遠征した。佐賀工業高校柔道部。バラエティ番組で特集されている芸人・はなわの長男、塙元輝(2018年度インターハイ佐賀県予選・個人戦100kg超級・優勝)を擁する佐賀工業高校柔道部。原田堅一監督に招かれ、出稽古に訪れた形だった。

横浜・桐蔭学園の新チームも佐賀工業に出向いており、飾工はこれ以上ない稽古相手たちと汗を流した。そして、選手たちは自信を深めた。

「俺たちは五分にやれている」

三輪も確かな手応えを感じていた。

「何年掛けても変わらないものは変わりません。でも本気の挑戦は、一か月でも数週間でも、もしかしたら数日間でも、人間を豹変させます。自信が大きく人を変えます。子供たちは変わりました」

一か月前、連覇が途切れることを確信し、うなだれていた三輪自身の思いも変わった。

「十連覇できるできないじゃない。もしも、このチームで負けても納得できる。子供たちがそう思わせてくれました」

佐賀から姫路へ帰ってからも、選手たちは緊張感と団結力を維持し続け、ひたすら畳の上で汗を流した。

道場の壁には、選手たちによる誓いが貼られてあった。

『三輪先生(ボス)へ 毎日の練習 死にたくなるほど怒鳴られて 逃げたくなる日もありましたが ボスへの感謝は消えません ボスを本当の日本一の親父に僕たちがします。平成29年6月18日(日)父の日に誓う。部員一同』

気持ちが伴わず“口だけ”だった6月。それから濃すぎる二か月を経て、大会目前の8月初頭。子供たちは父親への誓いを本物にしようとしていた。

(つづく)

中大輔(なか・だいすけ)

1975年岐阜県生まれ。日本大学法学部卒。雑誌記者、漫画原作、書籍構成等を経て執筆活動に。主な書籍構成に、飾磨工業高校柔道部・三輪光監督の『破天荒』(竹書房)、伝説の女傑・齋藤智恵子『浅草ロック座の母』(竹書房)。2014年『延長50回の絆~中京VS崇徳 球史に刻まれた死闘の全貌~』(竹書房)で作家デビュー。著書に『たった17人の甲子園』(竹書房)などがある。

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